はるありバレンタインデー小話

最近どうも彼女の様子がおかしい。
食事中は上の空で、行ってきますのハグすら忘れている。風邪でも引いたのだろうかと思ったが、特に熱は無かったし、喉がやられているわけでもなかった。
「風邪なんて引いてないわよ、大袈裟ね」
どこか元気のない声音だった。きちんとご飯は食べているし、衰弱はしていないけれど、このまま続けば消えてしまいそうな気がして、心配になってしまう。
なんとなく抱き寄せて顔を近づけると、「今日はダメ」と拒否されてしまった。部屋のよく見える場所にかけられたカレンダーには、ばつ印が付いていた。逡巡し、頬擦りをして髪にキスを落とす。それで元気がなかったのだろうか。合点は行くものの、ふに落ちない面持ちだった。
「ごめんなさい」
「いや、そういう約束だし」
「そうじゃなくて…」
歯切れの悪い彼女の言葉を疑問に思っていると。
「ああ、もう、違うの、忘れて」
やはり体調が良くないのだろうか。温めるように抱きしめてやった。
「今日も夜は冷えるから、もう寝るか」
「…そうね。朝食の準備してから寝るから、先寝てて」
「たまには手抜いていいんだぞ、体冷やすなよ」
「うん」


彼が寝室に行ったのを見届けてから、私は急いで台所に器具を用意した。
明日はバレンタインデーである。海外と日本では多少形式が異なるようだが、自分は生まれも育ちも日本であるので、日本式を採用している。
バレンタインデーには何をするか。女性が意中の男性に、想いを込めたチョコレートを渡す、とされている。
バレンタインデー自体は大好きだ。自分の好きな菓子作りに没頭出来るイベントだからだ。工夫を凝らしたありとあらゆるチョコ菓子を、研究するのに打ってつけの日である。高校時代はバレンタインデーが近付くと楽しみで仕方がなかった。どれもこれも自信たっぷりの作品がいくつも生まれた。
だが、世間的には意中の男性にチョコレートを贈る日であって、チョコ菓子の研究をする日ではない。それを後悔したのはつい最近のこと。
高校時代のチョコ菓子の研究に付き合わされていた彼は、現在は自分の恋人となった。当時は意識すらしていなかったのだから、当然『意中の男性』ではない。研究と称した試作品をいくつもあげたことはあったが、それは義理チョコですらない、ただのチョコ菓子だった。
つまる話、自分は本命のチョコレートを誰かにあげたことはないのだ。
誰にもあげたことがないとどうなるのか。
何をあげたらいいのかわからなくなるのだ。
想いを込めるとはどういうことなのか。
どうすれば想いが込もるのか。
視覚的に表現をすればいいのか、味で表現をすればいいのか、香りで表現をすればいいのか、包装で表現をすればいいのか。
一体全体世の中の恋する乙女は、どうやってバレンタインデーを過ごしているのか。
全くもって分からなかった。何一つ閃かなかった。彼のことを考えれば考えるほど、何も手につかなかった。
試作品を食べながら、当時の彼は虚空を見つめながら、「お前の作るものは、味は美味いが…」と言葉を濁していたのを思い出す。その時は何を言いたいのかよくわからなかったが、今なら何処かに穴でも掘って隠れたいほどにはよくわかる。彼はその時、自分に片思いをしていたのだから。片思い相手から、何の気持ちも込もっていない、義理チョコですらないものを与えられてどう思ったのか。
思い返せば思い返すほど、過去の自分を捨て去りたい衝動に駆られるが、過去は過去で、今は今だ。
あの頃は何の迷いもなく自信を持っていられた。何も知らなかったから。
今はもう、知ってしまったから迷ってしまった。
試作品はいくつも作ったが、その中で彼の好みを知ることなどなかった。今にして思えば試作品など全くの無意味だ。レシピは増えるかもしれないが、それで彼の心に何が響くというのだろう。
甘いものは嫌いではない。特にこれといった嫌いな食べ物はない。食感についても、嫌いなものは見当たらない、くらいの情報しかない。彼が雑食なのは知っていたが、雑食故に好みを見極めるのが大変難しい。コーヒーは何も入れずに飲むし、キャベツだって何もかけなくても食べれてしまう。目玉焼きにかけるものだって、何でもいいという。何もかけずに食べることもある。味に興味がないのかと思えば、美味しい店には連れて行ってくれるし、美食家な一面もあったりする。味や食感の好みから、ある程度はその人の趣味嗜好が分かったりするものだが、それが欠片もわからないのは、ある手の恐怖だった。何でも食べられるということは、何でもいいという放棄にも似ている。それは拒絶ともとれる隔たりのように思えた。
完成図が決まらず、もやもやとした何かのまま、今日まで来てしまった。
バレンタインデーのチョコには、技巧もセンスもいらない。それだけ決めて取り掛かる。
ほろ苦いよりは甘い方がいい。私の想いは苦くないから。
見た目は普通でいい。小洒落た虚栄心はいらない。
包装は分かりやすさ重視で。私は伝えるのが上手くないから。
平凡で何の変哲もないチョコレートが出来上がった。きっと、恋する乙女が渡したいチョコなんてこんなもので良いのだろう。
簡単なメモを添えて、自分も寝室に向かった。
寝入っている彼の頭を撫でると、それだけで心が満たされて泣きそうになる。
幸せの味は、きっとこんな味だろう。砂糖水を薄めたような、どこか物足りないような、でも薄ら甘くて、喉を潤してくれる、そんな味。
「おやすみなさい」
次に目を開けた時、貴方はどんな顔をしているんだろうと思いながら。